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2009年07月22日

唄う通行人

いつも、夜12時ころになると、大きな声で歌いながら自転車で我が家の前を通りすぎていく、若者がいる。声を聞くと、多分若い。

彼は(これも仮定だが男性のよう)夕方に、アルバイトに行く時に唄っていたこともあったように記憶しているが、主に深夜、毎日のように歌声が聞こえる。

それを聞くと、「お。お疲れさん。今日も気をつけて帰りや~」とわが子の帰りを知ったように、少し安心する。わざと大きな声をだして、寂しさを吹き飛ばしているのか、あるいは格好の歌練習の時間か・・・
想像は膨らむが、それはそれで、勝手に楽しんでる。

全く知らない人で、自転車で通り過ぎるだけの人・・・なのだが、妙に親しみを感じている。
今日も、また働いているのだろうか?今夜も通るかな?

投稿者 pianocraft : 22:56 | コメント (0) | トラックバック

2009年07月19日

蒸しても、燻しても・・・

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万古焼きの簡易燻製器

生協のカタログで見た、簡易燻製器・・相方が興味シンシン。桜のチップがついていて、簡単に燻製ができるとのこと。ネットで調べたら結構、燻製って好きな人が多くて、キャンプで楽しむ人も多いらしく
ホームセンターでも、チップや温度計やら関連商品が売っていた。もう、一般的なキャンプの楽しみなのかな。

でも、この燻製器は、家庭のコンロでするもので、大きな肉をぶら下げてベーコンを作ったりなどの本格的な燻製は不可能だ。だが、料理の味付けとして、スモーク味をつけるということはできる。

この鍋は、結局我が家にやってきた。でも、ある日NHK「ためしてガッテン」で「低温蒸し料理」というのをやっているのを見てしまった。野菜の味が深くなり、しゃきしゃき感が楽しめ、栄養価もゆでより落ちないというスゴイ技だったので、やってみようと思ったとき、「アノ鍋いけるやん!」と思いついた。

燻製鍋は、すのこのような網があるのでそこに野菜を並べる。なべ底に、水を張る。温度が50~70℃になるように蓋にすき間をあける。OKいけるやん。
これで、蒸し鶏、ほうれん草、とうもろこしとやってみた。おまけに、蒸し鶏は、蒸したあと、水を捨てて
燻製にしてみた。スモークチキン。ちゃんと煙の味がする。
心配した、キッチン煙だらけというようなことは全くなかった。(桜のチップをそんなに使わないから)

なんだか、楽しいな。とこの夏はいろいろ野菜を試してみよう。冷蔵庫にある自家製のピクルスは、1週間ほどたつが、一度低温蒸しすると、2時間ほどで味が染みるという。これまた、試す価値あります。

少し調理道具が増えると嬉しいことも増える。(飽きないうちは・・・)
グローバル企業のナントカウエアが、なんでも電子レンジで作っちゃうレシピと容器を売っているけれど
私はガス火に土鍋派で、オール電化というのも縁遠い。

投稿者 pianocraft : 21:58 | コメント (2) | トラックバック

2009年07月15日

放射線は忘れない

放射線に記憶があるはずがないので、忘れないというのは正しくない。
体内に取り込まれた放射線は、人には忘れられているが、放射能を放ち続けている。

三宅一生さんが、被爆体験をアメリカで新聞紙上で発表した。
閃光と見たことやお母さんを失ったこと。
唯一の被爆国の日本が世界に貢献できるとしたら、核兵器がたった1つたりともあってはならないということを広めることしかない。

8月が近づくとこういう話題が増えてくるが、先月にニュースになっていた内部被爆に関する発見は
驚いたとともに、内部被爆を目で確認できたことで、被爆とは一体どういうことなのか研究が進むといいと思った。

肥田舜太郎 先生著の「内部被爆の脅威」ちくま新書を以前読んで内部被爆のことは少し知っていたけれど、長崎で、当時被爆した人の細胞を見て、放射線が今も発していることを目で見ることができたというのは、本当に凄い。

ぶらぶら病と呼ばれたり、伝染病と思われたりと、当時は生き残っても死の種を体に持っているような人々が大勢いたこと、今生きている被爆者も、いまだにその種と闘っているという現実、60年も過ぎても殺し続けるという恐ろしい核兵器。

どこの国がいくつとか、表になっているのを見たりすると、うんざりする。
いくつもってるかって? 

人は欲のために戦争する。


投稿者 pianocraft : 23:30 | コメント (2) | トラックバック

2009年07月10日

ナミイの唄とココロ

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2009.6.29 京都 ネガポジにて

実に不思議なご縁で、浪さんの関西ツアーをお手伝いした。
浪さんのそばにいた時間は宝物となった。

言葉も、ココロも一杯になり、中々書くことができなかったが、少しずつ・・・。

5月の初めての出会い(那覇のコンサートに聴きに行く)から、ひと月と少し。再び大阪で、浪さんと会うことができた。
実は浪さん、6月の大阪公演の前に大腿骨骨折をやってしまっていた。6月1日手術。大丈夫なのか?
といった状況で、不安を抱えつつも、石垣島へ行っていた今回の主催者、清水彩月さんからの「OK」の返事が来て本当にやってきてくれるんだ~~とホッと胸をなでおろした。

関西空港へ迎えに行きご対面、「あなたは那覇で会って、風のようにどっかへ行った人?」と「めずらしいさ~」確かに・・。あの時は、コンサート終了後の飛行機で石垣島へ飛ぶ予定だったので、あまり時間がなかった。だが、何故か今車を運転している私を見て、不思議だと思って当然だ。
そして、来る前に風邪をひいて、声がでないことをとても気にしていた浪さん。車の中で、発声練習を始める。すごい。このプロ根性。並みの89歳ではない。

こうして家来の時間が始まったのだが、明るく、おしゃべりの好きな浪さんは色んな昔の話、唄の話をしてくれた。浪さんの唄は、八重山や沖縄の民謡から、お座敷でよく歌っていたヤマトの流行り歌やら童謡、ときには「you are my sunshine~♪」と急に思い出して歌ってくれたりしてびっくりしたが、ともかくどんだけ知ってるのかわからん。

けれど、ライブで唄うときは、歌詞を大事に説明する。うちなー口の唄のときも、古い唄のときもその唄の主人公がどんな物語に生きているのか丁寧に話す。ナミイのデンサー節も、小さい時に辻町に売られた時からのストーリーを「今は泣かずに唄えるけどね」と前置きして唄い始める。

沢山の悲しい唄も、泣いて唄った。お座敷芸者、浪さんの唄は、プロの芸と思っていた、確かに「お客さんを喜ばせる」ことに心血を注いだ本当のプロだけど、それだけではなく、「唄って」生きてきた。ということの重みは、その唄の中にあるココロを伝える。とも言うべき魂に迫るものだった。

やはり、ソウル。ブルース。ゴスペルでさえある。私のずっと聞いてきたルーツの音楽。迫害された黒い人たちの魂の唄に惹かれてきたのと同じ感覚を味わった。
浪さんは、直接的に、苦しさを唄うわけではない。けれど、沖縄の人たちがどこへ離散し、移民になろうと唄を唄い続けて、歌詞も変異させて、自分のものとしてきた唄と三線の歴史を思うと、より隠された、強い思いがそこにあるように感じる。

唄はココロである。
ご先祖のカミサマは、それを守り、浪さんはいつも感謝と祈りをかかさない。
そうして、唄い続け、ココロを多くの人に伝え続けるナミイ。やっぱり大好き。すごい。

また、お会いしましょうね。遊びましょうね。
次の幸せな時まで、私は私の心を歌えるか試してみます。


投稿者 pianocraft : 23:13 | コメント (2) | トラックバック