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2006年04月 アーカイブ

2006年04月03日

白バラとJesus Rose

この映画についは多くのblogで取り上げられている。身近なblogでも書いておられる、KATEKさん、hanaさん、Tamyさんなどの「白バラの祈り」の映画感想を読んでいていまさらなのだが、少しこの映画について書いてみたいと思った。
今日、この映画を観た。ナチスドイツ下で抵抗運動をして逮捕から5日で処刑される大学生の活動グループ「白バラ」の中で唯一女性で処刑されたゾフィーの史実に忠実とされるストーリー。戦時において、言論が抹殺され、戦況の悪化の事実も封じ込められても真実を語り「大逆罪」に問われた「白バラ」たち。

戦争とは多分このようなものなのだろう。個人の「自由」が国の大儀に押しつぶされる時とは。

ゾフィーがいかに強く、高潔な信念を持って、理不尽な「人民裁判」に挑んだか。その姿に感動する。けれど、時折垣間見せる、心のよりどころは「キリスト教信仰」なのであった。
人民裁判のその日の午後5時には、ギロチンに賭けられたゾフィー。直前に現れる牧師に「祝福してください」と願い出る。ゾフィーは磔にされるイエスキリストのように、「もうひとつのドイツの信念」を背負って死に追われたように感じた。

4月16日は今年のイースターである。イエスキリストが磔刑にあい、3日後に復活したお祝いの日。
イエスのことはJesus Roseとも呼ぶ。
私はこのバラとRoseが妙に重なってしまった。死に恐怖を感じていたであろうゾフィーを、本当に信仰は助けたのかもしれない。

クリスチャンでないわたしがこういうことを書くのはどうかと思うのだけれど、今度の16日の日曜日はイースター賛美に参加する。この日にゾフィーのことを想って歌おうかと思う。
まさに私達は「Jesus rose」という曲を歌うのであるが。
「太陽はまだ輝いている」と言うゾフィーの言葉は、自分は滅んでもその信念は生き続けるということをも現わしているのだろう。イエスの意志も弟子によって引き継がれた。

決して、キリスト教そのものを肯定も否定もしないが、信仰、信念が貫かれる時は存在する。
私達が今の政治のもとで生きていく限り、いろんな価値観と共闘して、守らなくてはならない「信念」は貫きとうさねばならないだろう。
ゾフィーの勇気に敬意を表して。

多くのクリスチャンの人にも見てもらいたい映画です。

2006年04月05日

よんよんコンサート 終了

昨日、日本ピアノ調律師協会関西支部主催の「第6回よんよんコンサート」が行われた。
スタッフとして関わり、一段落なのだけれどまだ、仕事は残っている。

「よんよん」とは何を意味するか?と言えば、1年中のいろんな日に意味付けされているひとつで、よんよん=4月4日 ピアノ調律の国際基準ピッチA=440HZにちなんで、4月4日はピアノ調律の日と決められている。語呂合わせだ。

その日を記念して毎年、各地で日本ピアノ調律師協会のイベントが組まれているが、関西では新人演奏会という形式をいままでとってきた。
関西の9つの音楽大学の新卒で学校から選出された演奏家が出演する、フレッシュな演奏会。
演奏内容は以下のとおり。
神戸女学院/ストラビンスキー ペトルーシュカ第3楽章謝肉祭の日
同志社女子大学/グノー 歌劇「ファウストより」、トウレの王、、宝石の歌
相愛大学/ラヴェル 夜のガスパールよりⅢ.スカルボ
大阪音楽大学/ヴィエニャフスキー 創作主題による変奏曲作品15 
くらしき作陽音楽大学/パラキエフ イスラメイ-東方幻想曲
武庫川女子大学/プロコフィエフ ソナタNo.6 Op82、第3第4楽章
大阪教育大学/スクリャービン 、ピアノソナタ第5番Op53
京都市立芸術大学/シマノフスキーソナタ第2番作品21、第1楽章
大阪芸術大学/ラヴェル 夜のガスパールよりⅢ.スカルボ

とはいえ、裏方をやっていると大方のスタッフは演奏を聞くことができない。
チケット交換ブースに座っていたわたしは、コンサートに来る人達とは接することができた。
こんな人たちが来るのか。という感じで。
このコンサートは新卒のこれからと言う人たちに、いずみホールというすばらしいホールで演奏できるという機会をつくる目的もある。どんどん羽ばたいてもらいたいと思う。
調律師というのはそういう音楽家(だけではなくピアノを演奏するどんなひとでも)を影で支えるのが仕事なのだから。

曇天の桜

桜がやっとあちこちで咲き出したな。と昨日、大阪城公園を横目で通り過ぎて思っていた。
けれど、夕方から雨が降り、今日もまた雨が降った。

雨上がりのどんよりとした雲の下に、幹だけがきわだって黒い桜を見た。
多分、太陽があるときには気が付かなかっただろう、「黒」に桜の別の美しさを見たような気がする。
鮮やかな顔料でうかびあがるうすピンクの花ではなく、墨絵にも近いかすかなピンクとまっ黒い幹。
こういう風景はたいがい車から見る。
仕事で移動しながら、あちこちで出会う桜を楽しみにしているが、こういう風に思ったのは初めてだ。

そういえば、随分。小さな旅もふくめて、旅のために旅をしていないなと思う。
街から街へ
住宅街から住宅街へ
国道からわき道まで
ぶらぶら歩くときも、もっぱら大きな街の書店であったり、地下街だったり、CDショップだったり。人のまみれたところばっかりだった。

ときどき、大きな風景を見にいきたいと思う。
昔のようにひとりでふらっといけたら・・・とちょっとだけ思った。

これは天気のせいということにしておこう。

2006年04月08日

霞と強風

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本日の太陽

多分、今日、花見をした人は多いだろうな。と思う。強風の中、花びらとともに吹き飛ばされそうな突風にもまけず、楽しんだのだろうか?私も午前中は車で移動中に、背の高いワンボックスカーが横風にゆれるのが嫌だった。

午後からは、フリマの下見に行ってきた。
今年は、手作りの楽器を野外のクラフトフェアのような場で販売してみようと計画している。今日は宝塚のガーデンフィールドの手作り市をのぞいてきた。宝塚ファミリーランドの跡地にできた、ドッグランもあったりする公園だ。宝塚駅から歩くとちょうど、「花の道」ぞいに植えられている桜が見事に満開だった。

犬を連れて遊びに来ている人も多く、天気のよいときは気持ちの良い公園だと思うが、つい子供の頃に何度か来た「宝塚ファミリーランド」のこの階段はかわってないな、とか、植物園にもよく行ったとか思い出にふけってしまった。

その帰りに見たのが写真の「太陽」だった。電車でも「六甲」もみえへんな~と相方と話していたのだが、たしかに今日はかなり視界がわるい。中国の黄砂が強風で舞っているからなのか、春霞なのかよくわからないが、雲もみえずにそらが白んでいる。
太陽もじかに見ることができ、白く浮かぶように見えていて、「白夜ってこんなんかな」という感じさえした。
幻想的な太陽。
帰りの電車でもずっとみていたけれど、白くぽっかり浮いた太陽は不思議な印象をあたえた。

黄砂のシーズンになると、車が汚れる。中国と空の国境はないから、自由にやってくる。
人間だけが不自由だなとも思う。

2006年04月15日

ナイロビの蜂 

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ナイロビの蜂(C)2005 Focus Features,LLC

風邪をひいていた。久しぶりに熱まで出して、ぼんやりしている間にジョン・ル・カレの「ナイロビの蜂」を読んだ。

映画のほうも5月に上映される。今年のアカデミー賞でレイチェル・ワイズが助演女優賞を獲った。
物語はざっとこんな風だ。ナイロビで英国高等弁務官事務所に勤める外交官のジャスティンは、突然妻のテッサを殺害されるという形で失う。
テッサは、ケニアで医療援助をするNGOや世界食料計画と連携して積極的に活動していた、強い女性だった。彼女は、巨大製薬会社がアフリカの人々を実験台にして危険な治験を繰り返し死に至らせたことを告発しようとして、その道半ばで殺された。この国の官僚、外交官、多国籍企業の癒着の構図を描きながら、妻が死にいたった真相をしるために夫のジャスティンはテッサのたどった道を行くというものだ。

これは、サスペンス小説だ。架空の外交官、官僚、製薬会社も問題の薬もフィクションだ。
作者のジョン・ル・カレはあとがきで、多くのアフリカでの専門知識を与えてくれた国境なき医師団の医師や製薬会社が第三世界と取引するうえでの不正を暴く活動をしている団体の存在に感謝している。
いろんなことが架空であるけれど、製薬業界の闇はこの小説より深いということらしい。
実際に映画化するにあたっても、英国外交団体から批判を受けていた小説だったが、実際の英国の高等弁務官が映画の製作に協力したと言う。ケニア政府もしかり。

ケニアは、本当に貧困の中にある。この小説が映画という映像になるにあたって、きっと圧倒的な美しい自然と圧倒的な貧困を見るに違いないと思っている。
テッサにはモデルの女性がいるという。
貧困への援助の必要はまぎれもなく、本当に必要なことだから。

映画を楽しみにしている。テッサのいるケニアに連れて行ってほしいから。

心の自由・発言の自由

風邪でぼーっとしていても、自公の教育基本法改正案のニュースには憤慨した。

個人主義が行き過ぎたから、日本の若者は働かないのか?あるいは、教育が公共を教えないから、人は不道徳になるのか?
何故今、細かに教育基本法を改悪しようと画策するのか。

自民党が大好きな「愛国心」を養うという言葉をつかうかわりに、「我が国と郷土を愛する態度を養う」という。
愛するということばの、実にプライベートな響き。
おおよそ政治がささやく言葉ではない。日本をよりよくしようというならば、アジアと先の戦争の総括をするべきであって、国民個々人が、国は素晴らしいと思うことではない。
順序は逆で、そういうとこ日本は好きだな~といいたくなるように、するということ。

「日の丸・君が代」を無理やり強制しなくてはならない理由は、それが矛盾した事だからだ。
心まで政治に踏み込まれることはゴメンだ。

KATEKさんも書いていたが、我が家の朝日新聞でもこういう記事があった。

「職員会議採決禁止 都教育委 校長の権限を強化」
東京都教育委員会は、13日職員会議で、挙手や採決によって職員の意思確認を行わないよう指示する通知を都立高校など全263校の都立学校長あてに出した。

「職員会議は校長の職務を補助する機関」なのだそうだ。
教職員に対する締め付けがいっそうひどくなりそうで、教育基本法以前に先生達が首をくくりたくなるじゃないか?
学校というところに民主主義がなくなる。
国がこころを縛る。

でも、本当はこころは縛れるものではなく、するりとかわし、自由にすりぬけていくものだ。

2006年04月18日

歩いて仕事にいく

ここ2日ほど、暖かな日が続いた。たまたまその間、電車で仕事をまわった。
この季節は、変化の楽しい季節だ。車で来たことのある街なのに、駅から歩いていくとやはり風景が違う。

最近は歩きでまわる時は、カバンを担ぐのをやめてキャリアーつきカバンを引きずっている。
ごろごろと、うるさい面もあるのだが、背に腹は変えられない。金属製の道具をしっかり詰めたカバンは、
肩から担ぐバッグだと、どうも偏りのあるほうにかけてしまう。
それでなくとも、ひどい側湾のある体なので体が歪んでしまっている。
調律の姿勢というのもタテ型をやるときなど特にひどい姿勢だ。片腕だけ、ピアノ上面について、片手は
ピアノの鍵盤をたたくので。
いつも、まっすぐでない状態といえる。

歩いて仕事に行く時もたまにある。
自転車のときだってある。
この仕事は、大概毎日違う場所を移動しているので、気持ちのいい季節は、道すがら楽しみもある。
電車でいくと、大阪駅周辺をとおっていくことが多いので、本屋の寄り道もできる。
キャリアカーになって、よくばって本を買って食事の買い物までしたらむちゃくちゃ重くなってしまい、階段を使わないといけないところで、マズイと思うのだが、人間、自分を忘れるといけないなと思う。
よくスーパーでカートにいい調子でてんこ盛りの買い物をして、あとで持つときに後悔するというの・・・

昨日、仕事帰りに本を買った、ベストセラーらしい「食品の裏側」という本。その他いくつか。
この食品の本は、食品添加物のトップセールスマンだった人が、ざんげのようにその裏側を書いているもの。前にTVでご本人が出演していたのを見た。あちこちで食品添加物の講演をしているらしい。
白衣を着て、背中に「わるいはかせ」と書いて、人工のイクラやコーヒーフレッシュをつくって見せたりして大盛況らしい。食べ物との付き合いもよく考えなければね。


2006年04月21日

話題の「わるいはかせ」の本を読む

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著者:安部司
出版社:東洋経済新報社
サイズ:単行本/244p
発行年月:2005年11月

このところ、盛んにTVで出演しているらしい「わるいはかせ」、この前のブログの最後で書いたように、この著者の安部さんは、白衣の背中に「わるいはかせ」と書いて、小学生にも添加物の話を講演に廻る。

相方から取り上げて、仕事の合間に読んでしまったというくらい、この本は一気に読める、読みやすい本だ。この手の食品添加物関連の本は、数多く出版されているし、気にしている人はその中の一冊くらいは手元に持っているだろう。けれど、この本はそういった本の専門性ゆえにわかりにくかった部分を現実に添加物に対処する方法として、わかりやすく書いている。

安部さんのTVでのパフォーマンス。センセーショナルな、加工食品の作り方。
マジックのように、食品が作られたり、増やされたり、色が変わったりそれ以外にも目に見えない部分にも使われ、日持ちが良くなったりと、食品添加物は今売っているものに入っていないものを探すのが難しいくらいになっている。

この本の中で、そういう派手な面だけでなく、もっとじわじわと身近に潜む盲点とわたしが感じたのは、
基本調味料だ。手作りでつくっても、使う調味料がニセモノならばそこから、食品添加物の摂取は始まる。すべての食材を自然のものに変えても、ニセ醤油とみりん風調味料、調理用酒などで味付けるとということ。
私は、だしをとるのは嫌いじゃない。昆布だけの味もかつおの味も、煮干の味も好きだ。醤油やみりん、酒にも気を使っているつもりだ。でもポン酢を買ったり、ドレッシングの1、2本は冷蔵庫にある。
直接加工品をたべなくても、スーパーの安売り生活では自然と添加物を取るような生活をしいられるということを多くの消費者がもっと知っていいと思う。

食に関していえば、わたしの周りにはベジタリアンの友人が何人かいる。その中でもビーガンの人は動物性のものを身に付けないほどの人もいる。(バッグなども)
そういった、ベジタリアンへの移行も食を中心とした、現代生活のひずみを拒否するという行動のようにも思える。
精進料理を例にとっても、植物性のみを食することによって、人間の精神的な状態を変えようという考えは、なんとなくわかる。

基本は、シンプルなものをシンプルに作る。あるいは、素材と相談してつくることでしょうか?
そのためは、正しい舌でツクリモノにだまされないようにしないとね。

この本の内容に関する安部さんのインタビューが書いてあるサイトを見つけました。
インタビューのサイトはこちら

2006年04月23日

音楽や音が伝えるものを考える

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映画「Touch the Sound そこにある音 」

金曜日にNHKの「英語でしゃべらナイト」を見ていた。この番組は前から好きだったのだが、放送曜日が引っ越してから初めてだった。この日の出演者はミュージシャンである。
途中から見たから、再放送(24日深夜①:10~1:40)で再チェックしなきゃと思うが、私が見たのは、AIのインタビューとエブリン・グレニーのところ。

AIのLAでの体験で、ゴスペルクアイア(聖歌隊)に所属していたということを初めて知った。確かアメリカ音楽高校を卒業していると思うのだが、その間の話だろうか。彼女は、たまたまアジア人のまったくいない教会のクアイアに参加したらしい。最初は打ち解けにくかったけれど、得意なダンスを教えたりしてどんどんメンバーと仲良くなっていった。

きっと辛い事や、しんどいことがあったのだろうけれど、ゴスペルの「つらいことはもう終わった」・・・これはよく黒人教会ではでてくる歌詞。アメリカで奴隷にされ、差別されてきた歴史を持つ黒人たちは救いを求めて、信仰をもった。そのように、癒されることばを歌いつづけることで、AIは辛いことを乗り越えてきたという。しんどい状況、辛い状況に置かれるほうが、信仰は深くなる・・・ようだ。(AIちゃんの信仰については不明)

でも信仰のあるなしに関わらず、音にのせた言葉は、こころにダイレクトに響くのも確かだ。
だから、信仰を深めるために宗教には音楽がつきものだ。
古来は(いまもかな)、音楽は信号伝達手段でもあった。打楽器をつかって。

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2006年04月25日

手作り竹二胡のワークショップを開きます。

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こちらのブログには、仕事の案内を書いてませんでしたが、手作り楽器のインフォメーションをひとつ。

大阪梅田の毎日文化センターで単発(合計4回)の講座を持ちます。

5月17日(水)から 第1・3水曜14:00~16:00(5月17日、31日、6月7日、21日)

受講料は4回13,400円(材料費込み)

詳細は毎日文化センターHPにて
http://www.maibun.co.jp/courses/music/contents/takeniko.html

映画「ナイロビの蜂」試写会

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ナイロビの蜂〈上・下〉 集英社文庫
ジョン ル・カレ (著), John Le Carr´e (原著), 加賀山 卓朗 (翻訳)

この前、小説を読んだ印象をエントリーした。
http://www.pianocraft.s113.xrea.com/mt/archives/000244.htmlなので映画の試写会を応募したら当選し、一足先に映画を観ることができた。

いつも思うのだが、映画の原作って「読んでから見るか見てから読むか?」映画を観てから悩む。
今回も上下巻ある長編なので、サスペンスの密度も濃く、先を読ませる気にさせる面白い作品だった。
それを映像でみるにあたり、、監督の意図で思いきり違うものになっているか、小説に忠実かというところから入る。今回は、原作に沿っているが、読んでいなかったら、もう少し流れを自然に観ることができたのかもしれない。と思えた作品だった。ということは、この原作を読んでいない人は、まず映画観たほうがいいかも・・・という感想だ。けれど、人物関係はわかりやすいか謎だ。

ケニアの風景は、予想以上に乾いていて、物語の重要なポイントとなる湖も殺された現場も想像した風景ではなかった、ほんとうに大きな荒地が多く、貧困の原因となる干ばつになってしまうのも納得できる。気温は映画からは伝わりにくいが、相当暑いはずだ。
小説のように、製薬会社や外交官、政府の腐敗を描いているが、こちらは映画のほうがトーンダウンしている。テッサとジャスティンの愛の軌跡にウエートが置かれているからかとも思うけど。

けれど映画のセリフで私のこころにひっかかって離れないものがあった。最後の教会のシーンでスピーチされる言葉。
「アフリカの命は安い」
よく、紛争でカウントされる死者の数のことを命なのにと思うけれど、アフリカでは違う。
生きている命すら安いのだ。製薬会社によって治験され、亡くなったアフリカ人は、死んだことも、薬を投与されたことも、生きていたことも記録から消され隠されていた。これは、映画の中でのことだけれど、ル・カレ(原作者)の書いたように製薬業界はもっと闇であるという言葉からも、これは事実から離れた事ではないように思う。
「安い命」利用され、捨てられ、忘れられる。このことで潤う多国籍企業がある。これは現実だ。

主人公のジャスティンは妻の死を「安い命」で終わらせたくなかったから、彼女のたどった道をもう一度生きて、告発を現実に投げかけようとした。

エイズも貧困が原因だ。それを止めることができないのは、誰のせいか本当はみんな知ってる。
製薬会社は、武器商人と一緒だ。と映画で誰かが言っていた。
矛盾だらけ。援助のふりをしながら命を奪う。

2006年04月27日

身近な死

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切ないほど美しい夕日を、このところ見るときがある。黄砂でかすむ日もあったが、晴れ渡った日の夕方が格別に美しく、明るい。

そんな日に「ナイロビの蜂」の試写会から帰って、一本の電話があった。「~さん。今日のお昼になくなったよ」
彼女と最近会ったのは、今年の初めの新年会だった。3つの家族でするホームパーティで、多分3年ほど続けて毎年やっていた。
ずっと、うんと前から彼女は透析治療を週に2回ほど受けていた。そのせいで、いろんな合併症を抱え、入院する事もしばしばだった。今回も入院していて今度は帰ることができなくなったのだった。

彼女は、子供はいないが、にこやかな連れの夫を「カズ」と呼んで、いつも一緒だった。
私の友人は同じマンションにすんでいて、子どもたちは彼女の家で第2の自宅のような過ごし方をしていたりした。いっしょにゲームをしたり、話相手になったり。
友人の子どもは2人、不登校で、昼間の遊び相手になってくれたり、親以外の信頼できる大人として、彼女の夫婦とはとてもいい関係だった。

我が家の息子も、石垣島の旅に連れて行ってもらったことがある。
ふしぎな大人だった。
これから「カズ」さんは一人になる。妻を亡くしてしまってからの人生は長いだろう。
また、一緒にあそべるようにしようと思う。すてきな笑顔がまた、見れますように。

大切にされ、夫から羽に包まれるように愛され、守られてきた彼女が、今度は天国から夫を見守ってくれると思う。
人は生まれたら、こんなに優しい思いにつつまれて皆が命を終えるわけでないことは、承知している。
そのような状況が、大変難しくなってきているのかもしれないけれど、どの命もそういった権利はもっているはずなのだ。
きっと世界のどこの人でも。

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