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2006年06月 アーカイブ

2006年06月05日

六ヶ所村ラプソディー 日常の中の異形

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六ヶ所村ラプソディー 

自分が生活するために必要なもの。パソコンのまわりにおびただしい、コンセントが刺されている。
デジタルの楽器・家電なくても、多分生活できるのだろうけれど、今の今、その中にまみれている自分がいる。
この電気のエネルギーは、どこからやってきてるのか?
日本に54基ある、原発から。

原発の廃棄物は、リサイクルされ劣化ウラン弾となる。イラク・アフガンで白血病になっている子供達をおびやかす大本は、ごく近くにあった。つまり加害者は私でもある。

さらに、54もある原発からでる核の放射性廃棄物を処理する為の再処理工場が六ヶ所村にある。
この工場の現実と、そこに住む人々、反対運動をする人、しかたなく賛成をする人。等しい愛情をもったまなざしで捉えた映画が、「六ヶ所村ラプソディー」である。

もう出来てしまった再処理工場。今年の3月31日にウラン試験が行われた。来年には本格稼動の見込みだ。
この工場が稼動する事によって、煙突から空中に、パイプから海に放射能がばら撒かれる。
周囲の人々が危険にさらされる。
海産物汚染、農産物汚染、内部被爆。海の水や空の空気で薄めるから安全と核燃は言う。
そこで生活する人々は、厳しい開拓の生活から土地を手放し、海を手放し、生活のために再処理工場と共存している。反対派の人は、細々と稼動中止をもとめて訴えつづける。

その中でもチューリップを育てて、反対運動を続けている菊川さんがいる。彼女の美しい「花とハーブの里」のサイトは、コチラ

本当に原発を手放して、生活できるように私達は生活を見直さなくてはならないだろう。そう迫られている。こんな危険な工場や、原発が日本の海岸線にたくさんあるということは、まったくテロリストにとってもっとも狙いやすい状況ともいえる。

この映画に賛同して、坂本龍一さんが、ポッドキャストで監督の鎌仲さんとトークをしている。
こちらのサイトは、RADIO SAKAMOTO Podcasting Vol.8
また、このことを世界にもっと伝えようと坂本さんはラッパーや友人のクリスチャン・フェネスと組んで歌を作った。また海外向けのポッドキャストで、「stop-rokkasho podcast」というもので英語で訴えをしている。

まず知ることから、そして考え、生活を立て直す。さあ、どこまでやれるだろう。

stop-rokkasho podcastの公式サイトhttp://stop-rokkasho.org/ 

ナミイ サイコ-!

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映画「ナミイと唄えば」

やられた~。三線をまじめに習おうと、三線サークルに初めて行った先週。その矢先にすごい映画を見てしまった。かねてから、噂の高い「ナミイおばあ」の映画「ナミイと唄えば」を七芸のモーニングショーで観た。

100はたち(120歳のこと)まで、神さま生きさせてくださいね。と毎朝神さまにお祈りするおばあ。
半ば、脅迫するように生きることを神さまに願う。ナミイおばあは、唄う唄う。ヒットゥイヒットゥイして生きていく。人と情や歌を交わし、ときには伴奏しあい、掛け合って唄う。
その歌の力は、生きるエネルギーにみちていて、その魅力に「はまらざるを得ない」
その姿をおばあの歴史をたどりながら、楽しく、歌い踊り、魅せる映画だった。

監督は「ナージャの村」「アレクセイの泉」をとった本橋成一さん。
原案は、姜信子さん。この人が、おばあのとりこになって書いた本、「ナミイ!」もある。
ちなみにCDも買ってしまった。
CDには、映画にはなかったカレシの大田さんとの出会いの「とぅらばーま」も収録されている。掛け合いで即興で歌う、ブルースやコールアンドレスポンスのような、形式のこの歌は非常に魅力的だ。

見終って、唄い踊りたくなる。人生も「またいっしょに遊ぼうね」と別れ際に言うおばあの言葉どおり、おおらかさの中にあってこそ、活き活きとしたエネルギーが沸いてくるのと感じる。じわじわと、あたたかくなり時間がたてばたつほど、こころに染み込んでくる。
歌三線という、ナミイの唄には、本土の流行り歌も多い。こんな風に、みんなを楽しませるために唄ううたを、あと40年くらいかかってやってみたいな。

元気になるには、観るしかない!!ナミイサイコー!

2006年06月10日

虫よけの話。

「週刊金曜日」が毎週ポストに届けられる。創刊当時からの読者だけれど、忙しいときはつい、封もあけず(郵送なので封がされている)何週間もほったらかしになっている。一冊500円もするのだからもったいない話だ。
来たばっかりの金曜日を今回はさっさと開けた。「愛国とはなにか」と大見出しが踊っている。ふむふむと
読んでいくと、「新・買ってはいけない」が気になった。
以前も「買ってはいけない」が発売されたがその続きは、金曜日でつづいている。

今回は「虫よけ塗るタイプ」の商品だ。以前はスプレーが多かったが、噴射による薬剤の吸入が問題になり、塗るタイプが発売されたという。
けれど、内容は同じで有効成分は「ディート」である。リンクをたどってもらえれば、その薬品の怖さがわかるのだが、
書かれているとおり、米軍が兵隊を蚊からまもるために開発した薬剤で、湾岸戦争のときに用いられたが、帰還兵の一部が記憶減退・頭痛・疲労感・皮疹などの湾岸戦争症候群に陥り、ディートが原因と疑われたらしい。(劣化ウラン弾の被爆が原因とも私は思うけどね。)

特に夏場は子供のアウトドアでの遊びに欠かせない、必須アイテムのように思われているから、気をつけなくてはいけない。
では、何をつかえばいいのか?の答えも記事にはかいてあった。
「なのはな生協」からの情報で手作りで虫よけが作ることができるという。
作り方 精製水 90ml、りんご酢 10ml、天然エッセンシャルオイル 10滴 を加えるだけ。
エッセンシャルオイルは虫よけ効果のある、ユーカリとか月桃の花のとかがいいのだろうか?
そういう商品も見つけた。リンクはここ

ともかく、「食品の裏側」で学んだように、身の回りにはない、わけのわからん薬品は要注意だ。

2006年06月13日

ベーゼンドルファーピアノ

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ベーゼンドルファーピアノアクションモデル

昨日は、日本ピアノ調律師協会、関西支部の女性調律師の集まりで、オーストリアの名器、ベーゼンドルファーピアノについて学ぶ機会をもった。

ベーゼンドルファーは、スタインウエイと並んで、コンサートピアノでおなじみだが、その音つくりは独特で
ウインナトーンとも呼ばれる。そのサウンドは、パワーのあるスタインウエイと違い、ボディの枠組み(リム)のつくりが柔らかいために、音の立ち上がりはシャープではないが、消えていく時間(減衰時間)がゆっくりで響きが残っている時間が長い。など、いろいろ特徴はあるのだが、生産台数が少なく、手作り感に好感をもてる。

オスカー・ピーターソンはいつもこのピアノを弾いている。
ジャズではパワーがあるほうがいいように、思うときもあるのだが、だけれどこのピアノは空間に響く音がすばらしく、ジャンルを選ばないと思う。というか、そもそも、ピアノがジャンルを選ぶわけや、演奏者を選ぶわけではないし、音楽がこのピアノでないと・・・というのもまた、ない。
すべては、その時のプレイヤーとの出会いであり、空気であり、その人がそのピアノをどのように自分の領域に持ってくるかということなのだと思う。

昨日は、このピアノを使って、ピアノのコンディションを整える方法を、コンサートチューナーの方にレクチャーしてもらい、道具や、こういうときはどのように行うか、手順どおりならどうやるか、などさまざまな形でアクション(機械構造)を分解してもらい、技術の方法を教えてもらった。

女性の調律師ばかり集まり、年に2回ほどこのような講座を企画したりしている。関西で協会に入会している調律師は440名あまり、そのうち女性は現在48名。
まだ、少数派である。少数派であるがゆえに理解されにくい点もあるだろう、また、女性のライフサイクルの変動のために多くの女性たちが、働き方を変化させてがんばっている。これが、男性調律師と違うところか。

まあ、今回も若い女性たちが多くあつまりよかった。

昨日みんなと話していて、ピアノの調律師は、コンサートで音を楽しむことができないという人がいた。
技術的にピアノの音を聞いているという。わからないことではない、でも、私がもしそのような気になる点があるとしたら、よっぽどマズイ状況が起こってる場合だろう。

昔のジャズやブルースの録音のピアノの音のすごいことといったら、チューニングもびやんびやん言ってる。でも、クラッシックのピアノコンサートと違うのは、それでもその悪条件でも、彼らの演奏はやっぱりすばらしいと思うことだ。それも、これも、仕方がないとはいえ、その時の彼らのサウンドである。
それは、楽しむほうとしては、調律があかんからやってられんわ~とは思わない。すごい!すばらしい。
これは、わたしが調律師の自分は自分の中のごく小さい部分と考えてるせいかな????

でも、ピアノはすばらしい。というよりは、音楽はすばらしく、私を刺激するものだ。

2006年06月20日

歌を失う

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今日は、ご近所の大衆中華料理店「珉珉」で、やはり近所の串カツ屋さんでもありテナーサックス奏者でもある方のJAZZ LIVEがあった。身近に音楽があり、いつも顔を合わせる街の人が、同じ街でパフォーマーになったり、お客さんになったりするのはいいことだと思う。

と、こうしてお客になっていると、心が騒いでくる。

私は、街の人間は、いつ自分の歌をうしなったのだろうとよく考える。お店で、カラオケで歌う歌ではなく、たとえば日本でも民謡をよく唄う地域の人たちが持っている、人が寄り合い、歌う唄。
自分にはもとから、ないという感じもしている。気がついたら、流行の歌や、レッスンのピアノの音がまわりにあった。ヨーロッパ産のクラッシック練習曲を自分も弾くことになったりすると、より、根っこの音楽がわからなくなる。決して好きでなかった練習曲。

その後は、ロックを好きになった。

だけど「ルーツミュージック」ということばに、いつからか惹きつけられる。
次には、アメリカ黒人のブルースを聞き、弾きはじめる。
ピアノは、器楽演奏のためというより、わたしにとっては伴奏楽器としてのほうが自分には合っている。
というのは、歌い弾きをしたいからなのだけどね。

うんと時間がたって、アメリカ黒人にとってのルーツミュージックとなる「ゴスペル」と出会い、イエスキリストのためにのみ歌い、聖書の言葉を歌うという音楽というより、祈りの時間をすごす。
そして今がある。
けれどここにきて、歌を取り戻したいと強く思うようになった。

「ナミイ」とであってから。
「歌は講釈するもんではない」
これは、歌の中身などについてあれこれ理由を考えたりすることをいなしてる。
「歌は隠すもんではない」これは、歌を歌えるのに歌わない人にむけて言われたことば。
ナミイは、歌を生きている。
年端もいかないころから仕込まれた三線で生きてきた。死にたいと思うことも積み重ねて。

私も自分の歌をとりもどそう。と考え始めた。
歌は聴くもんではないのだ。聞いて癒されることもあるだろけど、自分がやったほうがおもしろいって。
急遽、私はゴスペルから卒業することに決めた。別に入学したわけでも入信したわけでもなかったけど、この日本にあった唄を忘れていたから。
これから取り戻しにいこう。ぼちぼちね。

2006年06月26日

奇妙な病気

雑然とした書類仕事、ありがたいけれど多忙な本職。このせいで、ブログの更新はとどこおりがちだ。

この間、沖縄の「慰霊の日」も粛々と過ぎ、イラクでは自衛隊が撤退の準備を始めた。
自衛隊がイラクへ行き、日米の軍事同盟は強化され、着々と「敵を待つ国」になる日本。
そうそうW杯も見てたっけ。何故か、野球よりも愛国主義的でないサッカーは、チームがはっきり組織で成り立つ、パーツとしてしっかり動くというような野球と違って、個人技のウエイトの大きさ、個々の体力の強さ、など個人の「考え」「体」「技」が非常に重要だからか。

それだけは良かった。、スポーツイベントとをみてる不快さがなかった。君が代はたいがい聞かないしね。

ところで、そのような毎日で、疲れ気味の自分がぼんやり休んでいた今日。急に息子が帰ってきた。
「しんどい」と言うその顔をみて驚いた。
まぶたが赤くはれ上がり、むくんでいる。涙がとまらない、鼻水が出る、咳も。
おかしな顔をしてる。アレルギーか?と疑った。
熱を測り、脈をはかってと相方にいう。

「どうしたん?」「友人宅で食事した後すぐに、目がかゆくなり、息苦しくなった」こりゃ急性の食物アレルギーや。と判断。呼吸のことが、何よりも心配だった。
アナフィラキシーになってたら命取りだ。

心配で救急病院へ連れて行く。
診断は、やはり「何か」のアレルギー。アレルギーを押さえる点滴をしているあいだも、呼吸の状態に変化がないが、お医者さんが見に来てくれた。
この病院は、2歳で肺炎で入院して以来だ。
最近は、血液中の酸素の量を指先にはさむ機械で判るらしい。
それで、おちついているので呼吸には問題なさそうで、点滴後に帰宅した。

食品添加物に気をつけていても、体調によっては何があたるかわからない。
原因物質はわからないが、小麦か生いかか生ほたてか? 誰にもわからない。
アレルギーは親も持っているし、本人も花粉症が少しはある。
本当に、奇妙な状況だ。

息子の顔のはれは、ずいぶん時間がかかって、ましになっていった。
けれど、何らかの食物は注意しなければならないということは、これからずっとつづく。
人間は、あるいみタフだと思うけど。
からだが奇妙な反応をするせいで、随分生活はめんどくさい。
ひさびさに、心配した。健康のことでは、老親以外にわりと元気な我が家では、あまりない一日だった。

けれど、世の中には、本当に辛い戦いをしている人もいれば、望まない紛争地に生きる人もいる。

2006年06月27日

たまには、アメリカ映画をDVDで

たまには、映画館では選択肢から外れるけれど、ちょっと観たかった映画をDVDでみる。
今は、映画館で見逃せないものを選んでみているから、すぐにDVDでレンタルされるものは後回しになっている。でも、映画館で集中してみればもっと良かっただろうに・・・と思うこともあるけど。

今回は女性がテーマ。
「スタンド・アップ」と「イン・ハー・シューズ」どちらも女性の恐怖や共感や哀しさや情けなさや怒りや・・・そんなものをあふれさせる作品だった。
まったくタイプの違う作品。

「スタンド・アップ」は、シャーリーズ・セロン演じる主人公が鉱山労働についたときに壮絶なセクハラにさらされ、アメリカで初めてのセクハラ訴訟になったという実話に基づいている。DVDでは、モデルになった女性がインタビューに応じており、そちらも見ごたえがあった。しかし、この訴訟は1984年に起こされ女性側の勝利という形で結審したのが1989年。こんな露骨なセクハラが、20年ほど前に平気であったの??と私は愕然とした。アメリカのミネソタ州は、私もいったことがある田舎街だ。
男の職場を荒らすという反感で、繰り返されるセクハラは、女性が見ていたら恐怖に感じるだろう。

確かに、実話に基づくということは、エピソードの中にはオーバーに描かれていることも多くあるかもしれrない。無力であばずれと思われてる、味方のいない女性が、闘うということ。ここに意味がある。

「イン・ハー・シューズ」でも本当にどうしようもなく、だらしなく、学習障害で、自己肯定力の低い、したがって仕事もうまくつけないけれど、とてもセクシーで美しい妹とできがいいけどいまいちさえない姉がでてくる。実にどうしようもなく、ええかげんな妹を、しょうがないけど、何とかしなさいよ!とおもいつつ観ていると、相方は「こんな女」てな感じで、この映画を「何がおもしろいねん」と途中で投げた。

たぶんこの妹がさんざんに描かれているのは、新たな自分の道を選ぶまでのストーリーを際立たせようという意図がある。ひどかった女が成長する姿を見せるために、よりひどく、描いているとわたしは思うのだけど、わたしが同性だからなのか、あばずれだった、その過去だけで女のすべてを否定されなきゃならないのか?と反感をいだいた。相方に。
姉とも和解し、自分の足にあった靴を得た妹は、新たな人生をゆっくり歩みそうなエンディング。
努力をして読むことができるようになった妹が姉の結婚式で朗読した詩が美しかった。

E E カミングスの詩だそうだ コチラで紹介されているもの。
とちゅうで読まれる詩は、E ビショップのもの。 コチラで紹介されている。

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