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2006年09月14日

日常社会の中の宗教

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朝日新聞の夕刊に2週にわたって掲載された対談があった。「宗教と社会活動」というテーマで、カトリック神父の本田哲郎さんと浄土真宗本願寺派の住職の釈徹宗さんの対談である。
現代に生きる宗教について語り合ったものであるが、おそらく日本社会の中で今ある、求められる宗教的かかわりとは何かを問うている。

本田さんは、大阪西成区のあいりん地区で、野宿者の支援を行っている。はじめは炊き出しをしていたが、食事をもらいにくる労働者が本当はそういう「施し」を望んでいるのではないと気づく。
それから、賃金不払いの会社への交渉、生活保護申請の助けなど具体的な生活支援を行う活動に転換していった。彼らに「寄り添う」活動へと。
本田さんはクリスチャンファミリーに生まれている、だから、キリスト教の組織と建前との開きに疑問をもってきた。組織としてのキリスト教と、宗教の本質が離れているということで、隣人を愛せといいつつ、現実にできないことをするところに生じる欠落したもを感じ取っていた。
本来はキリスト教で言われる「アガペー」は、「愛」という抽象的なものより元の意味は、「その人をその人として大切にする」ことだという。そういうことなら、しっくりくる。

西成で活動していても布教は一切しない。神父は、布教よりもこちらが野宿者、日雇いの人から教えられることのほうが多い。という。宗教者よりも本当の困難をしっている彼ら。そいういう底辺で苦しむ人に寄り添うことが本来の「隣人愛」であるということも言っている。今、アメリカでブッシュの支援するキリスト教は、原理的な福音主義であり、聖書の記述がすべて歴史的事実とするとらえかたは根本的に間違っていると本田神父は重ねて言っている。

誰に寄り添うか?釜ヶ崎(西成)では、キリスト教・仏教・左翼の人たちが互いにうまく共同で活動しているという。自分の心の中で、誰を信心しようが、それを超えたところに本当に「人として人を大切にする」ということが成立する。と。これは同感だ。

目的は、人に寄り添うことであるならば、まず自分の宗教的立場があって活動しているというのはおかしい。まず、一人の人としてあり、その人が何に支えられているかは問わない。
本田さんの言葉の紹介ばかりになったけれど、こういう意見が多数派なのかは私には知りようがないが、かなり日本的なあるいは、日本固有の、多くの神との共存という社会認識の上にこの考えはあるように思う。原理的に先鋭化していきにくいのが日本の風土であると思うが、中には、オウムのように排他的になっていく新興宗教も中にはあるのが現実か。
誰が何を心の支えに生きていくかは問題ではなく、組織にとらわれないのが大切なのだろうとわたしも思う。教義や信条にしばられないことが大事だと、釈さんも言っていた。

この国は、神道原理主義を政治的に利用して国民を戦争で殺した。先鋭的になるということは、ほかを見ない、相容れないという孤立姿勢だ。人間も人との関係もゆるいほうがいいなとわたしは思っているけど。何にも属したくないというのもそいういうこだわりの表れか?やっぱり転石のように生きようかな。
Like a rolling stone ってことで・・・・

投稿者 pianocraft : 2006年09月14日 21:51

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コメント

こんばんは。本田さんの書かれた『釜が崎と福音』よかったです。釈さんのお話しはなまで聞いたことがあって,この方も面白い人。図書館で朝日新聞読んで見ます。いい情報ありがとうございました。

投稿者 KATEK : 2006年09月16日 20:54

私も、クリスチャンの友人は少なくないですが、人との関わりの核心的な部分は、どの宗教もまた、宗教を持たない人も一緒だと思っています。ただ、個人主義ではなく利己的であるという点が、現代人の欠点の一つとすれば、信仰で心のはばを広げる訓練になることも確かでしょう。

ローマ法王が、イスラムの人のことを逆なでする発言をしてましたが、なんで、よその宗教のことをとやかくいうんや~と思ってしますのですよね。

投稿者 pianocraft : 2006年09月17日 00:00

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