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2004年08月14日

終戦記念日は明日

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暑い毎日と世間では盆休みがあったりなかったり。そんななか、終戦記念日はまたやってくる。みなさんは、靖国神社をご存知だろうか?知ってる。あたりまえ・・・と思うけれど、知り合いから教えられて、HPをたどってみたら、これまた、靖国神社を詳しく知ることが出来る。ちなみに、リンクはこちら

一度も本当に訪れたことがない。写真を見てビックリ、兵器がたくさんあったり、軍事神社である。本当に、神さんかいな?

そんなことは、どうでもいいが、(ホントは重要な面があるが今は言及しない)。もうスグ、マイケルムーアの「華氏911」が公開されるのを心待ちにしていて、先日新聞を読んでいて、京都の立命館大学で19日に「華氏911」の上映と、大谷昭弘さん、安西育郎さん(立命館大学 国際平和ミュージアム館長)のトークイベントがあるという記事を目にした。申込の上抽選というやつなので、ダメもとではがきを書いたら、今日、招待状が届いた!

とっても楽しみ~。一足お先に盛り上がってこよう。

確かに「華氏911」は全米だけでなく大当たりのようだが、現実は、映画の中にあるのではなくて、実際に起こっているところがあり、今もなお、イラクでは、シーア派と統治軍の戦闘が続いている。サドル氏は、どうするのか?停戦の提示は、良い方に向いていくのか?

そんなことを、新聞やネット報道などで知るうえで、イラクの女性の日記を読んだ。
これは、最近出版されたアートン出版の「バクダッド バーニング」の今もつづく同タイトルのblog日記だ。

その中で、シーア派への攻撃のことも書いてあるが、私が知って驚いたのは、その日記の半ば以降の、イラクでのイスラム教徒とキリスト教徒のかつての生活の様子だった。
全文は上のリンク先のリバーベンドさんの日記を読んでほしいが、引用すると。

 「みんな聞いて知っていることだけれど、先週は教会が爆撃された。これには私たちみなぞっとした。何十年もの間-何世紀も、というわけじゃないけど-イラクでは教会とモスクが共存してきた。私たちは、クリスチャンの友人たちといっしょにクリスマスとイースターを祝い、彼らも私たちといっしょにイードを祝う。私たちはおたがいに「クリスチャン」とか「ムスリム」とかいうレッテルを貼りあうことをけっしてしなかった…そんなことはほんとにどうでもいいことだった。私たちは隣人であり、友人であり、お互いに相手の宗教上の慣習や祝日を尊重しあっていた。私たちの信仰は多くの点で異なっているし、その中には根本的な違いもあるが、そんなことはまったく問題ではなかった。

 クリスチャンの人たちがもはや安全だと感じることができなくなってしまったと思うと打ちのめされる。もちろん現在私たちのだれもが安全でないと感じていることはわかっている。けれども、これまではずっと、異なる宗教の間にだれもが知っている安心感があった。結婚式や洗礼式や葬式に参列するために教会の中に入ったことがあるイラク人は多い。戦争終結以来、クリスチャンの人たちは痛い目にあわされ続けている。南部だけでなく、バグダッドや北部の一部においても、住んでいる家から追放されるということが起こり続けている。しかるべき服装をするように、あるいは、教会に行かないようになどと強制されている人たちもいる。クリスチャンの多くが国外に脱出しようと考えているが、これは莫大な損失になる。イラクには、クリスチャンの高名な外科医、大学教授、芸術家、音楽家がいる。これが中東地域でのイラクのすばらしいところだった-私たちはみんなうまく共存しているということで、有名だった。

 この一連の爆発を企てた連中は、イスラムに可能な限り最悪なイメージを与えようとする人々だと、私は確信する。これはイスラムとなんの関係もない。ちょうど、いくらブッシュが関係あるように見せかけようとしても、この戦争と占領がキリスト教やキリストとなんの関係もないのと同じように。これが問題の一端だ。つまり多くの人々がこの戦争と現在の状況を十字軍になぞらえて考えていること。“イスラム”があらたな共産主義になってしまったのだ。これは、アメリカ人を脅えさせ、完全に武装して“自衛”のために他国を攻撃するようにさせるための、あらたな冷戦だ。“テロ警報”を発令して人々を脅えさせ、アラブ人一般、ことにムスリムを差別するようにさせるのが、もっともよい方法だ…ちょうどこの戦争が西欧人一般やアメリカ人に対する憎悪を生み出すのにおおいに役だっているように。戦争と占領で親や子どもや家を失った人々は、これをわが身がやられたことととらえ、おそらくは復讐したいと思うだろう。ムスリムであれクリスチャンであれ。

 私はいつも、教会の前を通るのが好き。地域のモスクからほど遠くないところに、バグダッドの太陽に照らされて教会が輝いているのを見ると、世の中はなにもかもうまくいっていると、つかのまでも感じることができる。教会の洗練された簡素なたたずまいは、モスクの込み入ったデザインと対照的だ。

 私の住む地域にもすてきな教会がある。高く、堅固で灰色をしている。とても機能的で簡素な建物だ。長方形で、尖った屋根のてっぺんにはあっさりとした十字架、つまりサリーブ(アラビア語で“十字架”の意)が立っている。質素な木製の扉があり、小さな庭がある。そう、ちょうどあなたの7歳の甥や娘が描く小さな教会の絵とそっくり。この簡素なつくりと窓のステンドグラスとがすばらしい対照をなしている。窓には少なくとも30色は使われている。教会の前を通るとき、私はいつもこの窓を見つめ、中にいる人たちに無数の色と形が降り注いでいるのだろうと思いをめぐらす。でも、最近はここを通るのがつらい。なぜなら、かつてこの教会へ礼拝に訪れていた人たちの多くがいなくなってしまったことを知っているから。彼らはシリアやヨルダンやカナダなどに発って行ってしまった。傷ついた心と苦しみを抱えて。 」

どう感じたでしょうか?

かつて平和なイラクでは、クリスチャンもムスリムも共存し互いに尊敬して生きていた。

できるんだ。

こうして、平和を考えていくとやっぱり、今はおかしい。

日本だって、とってもあやしい、米のパウエルが9条について意見を言った

いやなムードだ。やめて欲しい。外圧かけるな。

投稿者 pianocraft : 2004年08月14日 22:15

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