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2006年05月15日

ヴィゴが見せた、暴力と冷静

ヒストリー・オブ・バイオレンス」を見た。ヴィゴ・モーテンセンを見るために観た映画というのが正直な動機だ。

デビット・クローネンバーグ監督といえば、暗い、どろっとした表現がイメージされるけれど、この作品もそのような、暴力を受けた人間をえげつなく描いている。しかし、ヴィゴは、あいかわらず魅力的だ。
穏やかなアメリカ中西部の田舎町の食堂の主人が強盗が店に現れたときにあまりにも鮮やかに、銃を持って抵抗し、殺してしまう。その手際の良さは、彼の隠された「History of violence」を徐々に明らかにしてしまう。
家族の平安が疑惑で脅かされる。すばらしく魅力的な夫がかつてギャングで多くの人間に残虐な暴力をふるっていたことを知るという失意。思春期の息子の暴力をしかる父はその信用を失っていく。

愛と暴力の対立というサブタイトルがついているが、ラストシーンは、ギャングを殺してきた父が朝食時に家に戻り、食卓をかこむ家族の前で呆然としている。ちいさい末娘が皿を差し出す。息子も食事をすすめる。母はちいさく、音もなくくちびるで言葉を告げる。多分、彼女は、この夫を受け入れて、この先も生きていくのだろう。この家族の物語は架空の時間の中でつづいていくのだろう。というラストであった。

それが妻の愛だというのならば。暴力は避けることのできない現実として、肯定されるのか。
わたしには、解せない。もちろん、憔悴しきったヴィゴの表情は、ぐっときてしまうが・・・。それは、ストーリーとは関係ない。

最近そういう感じをもつことはなかったのだが、映画の中に好きな俳優がでていると、映画の登場人物としてでなく、時々俳優そのものを感じているときがある。これは、この人の映画意外はありえないのだが、「あっ。この顔いいやん」というような、それは、作品を鑑賞するためにじゃまになるのかもしれないし、正しい観方であるとはいえないだろうが、でもね~。これも楽しみなんだよね。

映画全体としては、釈然としない。暴力は必然であると思えないから。
しかし、ヴィゴはインタビューでも「他者への暴力は自己破壊につながる」といっているように、一見妻や家族の愛によって、うそで固められた生活に主人公がエンドロールのあと戻るとしても、破壊されたものは戻らないだろう。このことを、イラク戦争にたとえて、アメリカ政府を批判するのが、ヴィゴその人なのだ。

美しい静的表情が暴力的な表情に変わるとき、ヴィゴはすばらしい。困惑する、悩む表情も。
クローネンバーグとの次回作も決まったらしい。また、どろどろかいな。
その前に出演したスペイン映画を早くみたいけど。
私は、ファンといいながらも公開から、うんと時間がたってから鑑賞しました。いつもほんとに出足がわるい。だって、観たい映画が多すぎるのだから・・・・

投稿者 pianocraft : 2006年05月15日 16:48

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