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2007年08月21日

世界報道写真展2007

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毎年、足を運ぶ報道写真展、大阪ではハービスホールで23日まで開催されている。
関西で開催される後の日程は、
滋賀/10月11日~10月21日、立命館大学びわこ・くさつキャンバス
京都/10月23日~11月11日、立命館大学国際平和ミュージアム

今年は、2005年に次いで知り合いとなった池上宗徳さんのビデオ作品が上映されている。
タイトルは「LEBANON 2006」昨年の8月、ちょうど1年前にイスラエル軍は、ヒズボラと戦い、レバノンの空爆を繰り返した。この空爆の後を池上さんは撮ってきている。

ほとんが一般の市民を対象とした被害となっている、崩れ去った町をみて、あるいは、空撮の街の爆撃前と後の映像をみて、愕然とする。
報道写真展のタイトルとなっている世界報道写真大賞をとった作品もベイルートの街を通り抜ける若者たちを映したものだ。

若者の美しい姿、赤い車と対照的に後には爆撃を受けて崩壊した建物が写っている。日常の中にある破壊。非日常が日常になる恐怖。「戦争とはそのようなものさ」と池上さんのビデオに登場するお父さんがあきらめ顔で言う。

今回の写真展は、レバノンの侵攻を写したものが多い。
そして、そのほかの苦しい気持ちにさせる写真も、すべて、大きな格差の中に放り込まれた人間の姿を見ることができるように感じた。

内戦で埋葬される人、イラクで夜に米兵に急襲される家庭、グアテマラで「フェミサイド」とさえ呼ばれる、女性ばかりを狙った残虐な、虐殺。侵略者と侵略される者の差は?あっちとこっちでどうちがうの?
どうして、殺されなければならない人がいるの・・・という気持ち。

かといえば、スペインで密入国のために過酷な船旅をして衰弱したアフリカ人を助ける、赤十字の人ややその海辺でバカンスのために来ていた一般人。人は助けることもする。殺しもするけれど。

そういった、立場の逆転がいつ起こるかもわからない恐怖。
たった一年前の8月のレバノンを忘れていた日本にすむ自分。なさけない。

写真展に入ってすぐ、写真の影響について語られたくだりがある。
本当にスチール写真と言うのは、注釈がついているといないでうんと違う。人は目から知ることも多い。
けれど、ほんとうにそこに生きている人は、誰かに自分の瞬間をのぞかれているとは思ってもいないだろうね。知るのが一歩。せめてもの、ささやかな、一年に一度の行動。

投稿者 pianocraft : 2007年08月21日 23:45

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コメント

「フェミサイド」ということば初めて聞きました。弱いところから狙うなんて・・・日本のなかでのほほんと暮らしていると,見えないものばかり。報道写真展は,いつも見逃していますが,大事なイベントですよね。でも長倉洋海さんがいっているように,悲惨だけが戦争ではないということ。それでも何とか暮らしていこうとする人もいるってことも,大事だなぁと思います。結局はどっちもですね。

投稿者 KATEK : 2007年08月23日 05:52

KATEKさん、こんばんは。
私も「フェミサイド」ついては、知りませんでした。
この写真がUPされ、フェミサイドについて詳しく書かれたサイトを見つけました。でも、死んだ女性が写っています。

http://gphoto.exblog.jp/5243686/

この中で、これが内戦のときに行われた暴力と一緒と書いてあります。「暴力の文化」とも呼んでいるあたり、戦慄がはしります。暴力で政府軍が女性に行った暴力と虐殺が今も行われているということです。その犯人さえ特定できない。無残なことです。

投稿者 pianocraft : 2007年08月23日 22:20

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